サッカー日本代表はワールドカップ予選を終えたが、時計は動き続けている。7月には東アジアのライバルとの戦いが待っているのだ。そのE-1選手権は、日本代表にとって、どのような意味があり、またどのように活用すべきか。サッカージャーナリスト後藤健…
サッカー日本代表はワールドカップ予選を終えたが、時計は動き続けている。7月には東アジアのライバルとの戦いが待っているのだ。そのE-1選手権は、日本代表にとって、どのような意味があり、またどのように活用すべきか。サッカージャーナリスト後藤健生が考察する!
■先発選手の多くが「欧州クラブ」に所属
ワールドカップ最終予選を終えた日本代表は、9月以降は強豪国との対戦を通じて来年のワールドカップ本大会に向けての強化に入る。だが、その前に、7月には韓国でEAFF E-1サッカー選手権という大会に臨む。
主催は東アジア・サッカー連盟(EAFF)。大陸連盟であるAFCとは別の地域連盟だ(AFCの下部組織というわけではない)。本部は東京の日本サッカー協会(JFA)と同じビルの中にある。2002年の日韓ワールドカップ直前の2002年5月に設立され、翌2003年から東アジア・サッカー選手権大会が始まり、2005年から女子大会も行われるようになった。
大会名は後に「EAFF東アジアカップ」と改められ、2017年の第7回大会から「Eー1サッカー選手権」となった(いずれ2部に当たる「E-2選手権」ができるのかと思ったが、そういうわけではなさそうだ)。
第1回大会は2003年5~6月に予定されていたが、SARS(重症急性呼吸器症候群=コロナウイルスによる感染症)流行の影響で12月に延期されるなど、さまざまなトラブルに見舞われ、「2年に一度」という規約ではありながら大会開催は不定期。今回も2022年日本大会から3年ぶりの開催となる。
この大会の最大の問題点は、開催時期がFIFAの国際マッチデーではないので、いわゆる海外組は原則として招集できないこと。とくに、現在の日本代表は先発選手のほとんどが欧州クラブに所属しているため、大きな影響を受ける。
はたして、この大会にはどのような意義があるのか? そして、ワールドカップ本大会を1年後に控える日本代表は、この大会に何を求めるべきなのか? そのあたりを、考えてみたい。
■日本サッカー「初めて」の国際試合
EAFFの設立は2002年だったが、東アジアレベルの大会としては1917年から34年にかけて日本、中国、フィリピンが参加して開かれていた「極東選手権大会」(陸上や水泳、野球などを含めた総合競技大会)があった(当時フィリピンはアメリカ領だったため、各種球技や陸上競技のレベルは高かった)。
1910年代といえば、日本では東京高等師範学校(筑波大学の前身)蹴球部が初めて本格的にサッカーに取り組み始めたばかりの頃で、サッカーは1917年に東京・芝浦で開催された第3回大会から参加した。
これが日本サッカーにとって初めての国際試合となったのだが(JFAは1921年の大日本蹴球協会設立前の試合なので、この試合をAマッチとして認定していない)、日本代表として出場した東京高師は中国に0対5、フィリピンに2対15というスコアで大敗を喫してしまう。
■韓国に「1勝もできなかった」時代
このため、日本のサッカー界にとってはこの大会での勝利が大きな目標となり、1927年の上海大会でフィリピンに勝って国際試合での初勝利を記録。1930年の東京大会ではフィリピンに勝利し、中国と引き分けて、「同位優勝」という形ではあったが、初の国際大会での優勝を経験した。
極東選手権は日本が中国大陸東北部に樹立した傀儡国家「満洲国」の参加問題などで、1934年大会を最後に消滅。その後、日本のサッカー界の目標はオリンピックとなり、第2次世界大戦後も、やはりオリンピックやアジア競技大会が日本サッカーの目標だった。
しかし、1936年のベルリン・オリンピックではヨーロッパの強豪スウェーデンを破るまで強化が進んだ日本サッカーも、第2次世界大戦で強化・育成が中断したことで戦後はすっかり弱体化。1960年代の東京、メキシコの2つのオリンピックでは活躍したものの、その後はアジア予選の壁を突破できず、オリンピックにもワールドカップにも出場できない時代が続いた。
とくに韓国相手には、1959年のローマ・オリンピック予選で勝利して以降(予選は1勝1敗で敗退)、1960年代には1勝もできなくなってしまった。